2009年10月17日 星期六

2009年9月16日 星期三

拉 致
廖 継思

拉致――辞書を引くと「無理やりつれていくこと」とある。略奪も似たようなものだが、この場合土地、物品、食料をも含むので範囲が少し違うらしい。拉致は人間の場合にだけに使われるようだ。大げさにいえば、拉致は人類とともに始まった。そして腕力の差からいって男が女を拉致するのが普通だった、と思う。

ローマが現在のローマの地に建国したのは紀元前715年とされているが、彼らが居を定めた場所は、起伏する七つの丘にかこまれた、ほとんど耕作できる平地もないところであった。北に前から定着していたエトルリア人(サビーニ族)が、南に地中海を走り回っているギリシャ人の集団がいたので、その場所に落ち着いたらしい。集団は牧畜(羊飼い)を主にして川辺にいたから水利の便はあったが人口の急速な増加につれて領地を広げる必要があった。初代の王ロムロス(ローマの語源は彼による)は度々部下をつれて隣のエトルリア人地区に攻め込む。目的は女性の拉致だった。ローマ人は男が多かったのか、拉致した女性は妻にした。当然、拉致されたほうは奪い返そうとする。何度も戦闘があった後、ついに拉致された女たちが戦場へ割り込んで、戦いはやめなさいという。夫(ローマ人)と親、兄弟(エトルリア人)が戦うのを見るに忍びないからだという。そこでローマとエトルリアは和解し、ローマの版図がはじめてひろがった。
拉致が結婚の一つの形式だったのはローマばかりではない。多くの民族にのこる結婚風習からそのことがうかがえる。台灣でもその残滓と思われる結婚風習が数多く残っている。花嫁を迎えに行く「子婿伴」や里帰りの「舅仔伴」などがそれだが詳しいことは別の機会に譲る。

ローマの建国からほぼ2800年たった。
人類は文明になったというが、北朝鮮では最近まで公然と拉致が行われていた。ある日、新潟県の海岸で散歩していた若者が(男女を問わず)正体不明の船に乗せられていったり、ヨーロッパで日本人の若い女性が突如姿を消したり(横田めぐみは当時13歳だった)、行き先はすべて北朝鮮だった。総数は13人とも17人ともいい、正確な数字はわからない(日本と北朝鮮の発表した数字がくいちがっているため)。結婚させられたのもいるがこのような拉致の真の目的はいまだに謎につつまれている。
庶民ばかりでなく、大物も拉致されることがある。金大中が野にいたころ、東京のホテルで韓国のKGBに拉致された事件があった。他国の首都で特務機関が行ったことで大事件といえるが、韓国政府が謝罪したかどうか分からない。
拉致の先輩は、実は中国である。政敵の拉致は日常茶飯事のようにおこなわれていたが、戦乱の時代には若い男を拉致して兵隊にすることも普遍的に行われていた。日本陸軍は兵員が足りなくなるか、あらたに師団を編成する必要が生じると1銭5厘の「赤紙」(召集令状)を発行すれば国家機能が働いて兵が集まるが、中国では隊長が請負で集める。このとき定員いっぱい集める隊長はいない。もう長く軍隊で生活してあらゆる細部に通じた老兵や志願兵で員数が足らないと街へ出て拉致する。それで八割かた集まったところで募兵完成の報告をする。点呼があるから定員に足らないぶんは点呼の日だけの「傭兵」に日当を払って雇う。
私が子供だった頃、となりの集落に「老啓叔公」という話好きな大叔父さんがいた。酒が好きで一杯機嫌になるとよく昔話をしてくれた。あるとき、なにかの拍子で「わしはな、シナ兵になったことがあるんだよ。清朝の兵隊だがな」といったことがある。よく聞いてみると、県庁が彰化にあった頃、守備兵の身代わりで点呼査察に参加したのだという。
「お前の名前は林xxだ。(よく覚えておけ)。名前を呼ばれたら「有(ユー)」と手をあげて答えるんだぞ。わかったか」
と何度も練習して、制服を着て広場に整列し将校がくるのを待った。係官は名簿片手に一々名前を読み上げ、手があがるとちょっと観察して次に移る。馬鹿面でもかまわないが、あまり年をとっているものはだめだ。
「200人くらいいたから結構時間がかかったよ。全部が傭兵ではなかったが。夜になってからわれわれ臨時兵は日当をもらって帰った。そうだなあ、銀貨一つくれたかなあ。割りのいい仕事だったよ。あとの二割の人の給料はどうするかって?もちろん隊長のポケットに入るさ。ほかの給与も含めてな。ただね、一人占めはいかんよ。県長はもちろん、台南府にも適当な人を配して査察の時期を知らせてもらえるようにしないとばれるからね。結構出費もあったんだろうよ。そんな金を節約したために通知がおくれて傭兵の手当てが間に合わず、汚職罪で銃殺されたのがいたそうだよ。
拉致か。平時はそんなことしないよ。あれは軍が移動するときにするもんだ。拉致してそのまま行軍してしまうからね。拉致されたとわかったところで相手は武器を持った集団だ。手が出ないよ。泣き寝入りするだけだ」

国民党時代にも拉致は半ば公然とおこなわれていた。公然の秘密ではあっても、国軍の栄誉に係わるのでいう人もなかったが、なぜか中華人民共和国建国六〇周年になる今年、相次いでいくつかの拉致の例がテレビや新聞で暴露された。
六月に放映された「台灣演義」で二例報道されている。一例は大連で結婚式に赴くため家を出た若者が、街で兵隊狩りに会い、そのまま軍に編入された件である。彼が属した部隊は東北地方で連戦連敗の末台灣に撤退してきた。後に国軍更新計画で退役し、結婚して子供ももうけたが、ある日台北の街角で大連で結婚するはずだった彼女に会った。奇跡的に彼女も結婚して台灣に逃れてきていたのである。再会した二人はともに配偶者を亡くしていたので改めて結婚し、ニュースに大きくとりあげられた。この例はきわめて稀な幸運な例だが、ある新聞が伝えるところによると、母に「醤油を買ってきて」といわれて街へ出たところで拉致に会い、部隊とともに台灣に逃れ、一九八九年中国への帰省訪問が許されるまで母親との連絡も覚束なかった彼が、帰省するについて真っ先に買ったのは醤油一瓶だった。母の言いつけを果たすために。美談である前になんと悲しい国かと思う。
中国では兵隊の員数をあわせるために拉致が普遍的に時代を超えて行われていたことが分かる。こんな例がどれだけ埋もれているだろうか。掘り起こせば何万とあるだろう。
中国のエリートによる座談会の記録を読んだことがあった。毒ギョーザ事件について異口同音に、「日本人がどうしてそんなに騒ぐのか分からない。だれも死んでいないのに」と言っていたのに唖然とした。彼らにとって日本人がなぜ拉致問題をとりあげて騒ぐのか、永遠に分からないだろう。
史上最大規模の拉致は、ポルトガルによるアフリカ人の拉致だったのではないかと思う。カリブ海の島々のサトウキビやブラジルの広大な土地に栽培していた綿花の収穫は一斉に行う必要があり、大量の労働力が要求された。それをポルトガルは現地で拉致したアフリカ人に求め、かの悪名高き奴隷船に積んで供給したのである。拉致に当たったのはポルトガル人だけではなかったが、運送したのは殆どポルトガル船だった。その数900万人とも1500万人ともいう。酷い条件の奴隷船で運んだため、途中で死ぬものも多かったから記録が不確かだったのだろう。北朝鮮あたりでは「たかが十人や二〇人の拉致でなにを騒いでいるか」と考えているかもしれない。
一方、日本でも秀吉の朝鮮出兵の際、引き上げるときに朝鮮の陶工を拉致した前歴がある。その子孫がいま一四代か十五代になっているらしい。このときは朝鮮の優れた陶磁器技術がほしくて連れ帰ったのだから、納得づくでつれてきたのもいただろう。いずれにしてもすでに日本の社会にとけこんでいる。

人類の歴史の中では、戦争で敗者になると勝者が本国に拉致して奴隷にすることが広くおこなわれきた。近代になって捕虜の取り扱いに国際的なルールが決められたが、労働はさせていいことになった。しかし、ソ連は戦争が終わった時点で捕虜をシベリアに連行し、戦後もなお何年間も労働させた。「抑留」と造語したが、実質は拉致なのはまちがいない。これに対してソ連が謝罪したのをきいたことがない。

2009年8月30日 星期日

緑の海平線を観て――少年工物語補遺

緑の海平線を観て――少年工物語補遺
                            廖 継 思

2007年11月26日、公共テレビで「緑の海平線」(少年工物語)が放映された。郭亮吟監督によるドキュメンタリーである。郭監督は、家族がゼロ戦となんらかの関係があったので、是非記録として残したかった一念からこの映画の製作を思い立ったという。私の弟がその少年工の一員だったので、見てもらって感想を聞いた。
一般に海軍工員と呼ばれていた高座の少年工は総数8419人もいた。第一次は昭和18年4月に高座海軍工廠に着任したが、選考は前の年から行われていた。海軍の戦闘が海戦から空戦に移って行く中で、飛行機の増産が最優先となる情勢を見て取った結果である。しかし、内地では兵員の動員で労働要員が不足していたので、台湾の若い少年に目が向けられた。
募集は昭和17年、当時国民学校の高等科1,2年生だった男子生徒(15歳前後)を対象に、学校の先生を通じて行なわれた。昭和17年といえば、ミッドウエー海戦とガダルカナルへの米軍上陸で戦局は不利に傾いていたが、一般国民には知らされず、まだ勝っていると思われていた時期である。熱心な教師や学校では半ば強制的に勧めた形跡もある。
働きながら技術を習得するとともに、中学程度の学業も教えるから、何年かあとには中学卒業の資格が得られるというのが、募集の要項であり、当然愛国心に訴えることも忘れなかった。志願が原則だから保護者の判が必要だった。親が反対だったので、判を盗んで押した人もいたといわれている。
選考は学科試験から始まった。
学科試験をパスしたものだけが第2次試験に参加できる。主として口頭試問と身体検査だが、ここで落とされて泣いた人も少なくなかった。志願者約2万人から採用したのが上記の数字であった。
上記のほかに、旧制中学校や実業学校を卒業した人も募集した。少年工を統率するためで、中隊長と呼ばれていた。約200人採用された。20歳前後で、私の中学のクラスメートも一人採用されている。弟は第7期で、その中隊長は台北二中出身の人であった。広田と呼んでいたから多分黄姓だったのだろう。
少年工はまず高雄の岡山海軍工廠、俗称「空C廠」に集合の上、何回かに分かれて南方からの輸送船とともに日本に赴いた。ドキュメンタリーでは、高座工廠を「空C廠」といっているが、それは間違いで、「空C廠」は岡山海軍工廠のことであり、南方からの飛行機の整備を主な業務としていた。(はじめは一般から自動車整備の経験があるものを募集していたが、あとで少年工も一部投入された。空C廠は後にフィリッピンに進出して現地で整備をするようになったが、米軍の上陸後山の中に逃れ、何ヵ月かの後投降して一命を取りとめた村人がいた。少年工でフィリッピンで亡くなった人がいたのはこの事情による。)
第一梯団の少年工約800人は、昭和18年4月30日にサントス丸で高雄を出発して、5月7日に高座に着いている。昭和18年といえば、その3月19日に神戸とキールンを結ぶ内台航路の高千穂丸がキールン沖で撃沈されたばかりだったから、海軍でもこれら工員の輸送にはずいぶん気を使ったらしい。第一船は800人をのせて、数隻の南方からの軍用船と船団を組み、駆逐艦に囲まれて航海した。この方式は一年後弟が乗った第7期の時も同様だったという。第7期は昭和19年3月に出発したから、情勢は一層厳しくなっており、護衛駆逐艦の数も多く、乗船者も増えたのか、野菜などは甲板に露天積みして網かけしていただけだったという。
実は、私は弟が志願したことを知らなかった。高座からのはがきではじめて知ったが、さて高座というのはどこにあるか分からない。ようやく、大和の近くにあることが分かって、千葉から横浜まで行き、それから相模鉄道に乗り、大和で降りて高座に着いたのはもう昼を過ぎていた。実際は、大和で江ノ島線に乗り換えて鶴間で降りる方が近かったが、知らない土地で大廻りしたことになる。弟たちはまだ基礎訓練中で、合図の笛に合わせて金槌を振り上げては鏨(たがね)を叩く画面が映画で何度も放映されている。一棟200人の宿舎が40棟建設されて、彼らはそこで生活し、工場まで2キロの道を、隊列を組み、軍歌を歌いながら工場まで歩いて通勤した。私が高座へ行ったのはこの時だけで、その後一度だけ派遣先の中島飛行機製作所・太田工場まで行っている。私も工場に就職したばかりで、中々休みが取れなかったのである。宿舎はノミだらけで、その飛び上がる音が聞こえるくらい、文字通り跳梁していた。
高座工廠が正式に開廠したのは昭和19年4月だったから、第一、二期生(第一期せいは内地で募集した日本の少年だったから、台湾から行ったのは二期生が最初だった)あたりは、工員養成訓練のかたわら、約束通り学科の授業も受けたが、それ以後になると基本訓練のあとすぐ各地の工場へ出向している。弟は4月に着いて、6月か7月にはもう太田の中島製作所へ派遣されていた。私が尋ねて行った時、広田中隊長の計らいで、腕章をつけて工場のゼロ戦製作現場を見学している。はじめて身近に見るゼロ戦は意外に小さく、これでよくも台南からフィリッピンまで往復できたと思うくらいだった。機体と翼をリベットでつないでいく動作はもう一人前の工員に見えたが、実は一般工の助手として当て板などを支えていたに過ぎない。別棟で夜間戦闘機・銀河と月光、高速、高高度戦闘機・雷電の試作が進行中だった。まだB29は来襲していなかったが、ゼロ戦では高度や速度で歯が立たないことが分かっていたので、次期戦闘機として期待がかけられていたのである。これらの機種は、後に高座工廠に移って製作されたが、そのころには空襲が激しくなっており、資材も不足勝ちで、それでも終戦までに128機生産されたが、実戦に参加できたのはそんなに多くなかったらしい。期待ほどの戦果も上がらなかった。
私はまだ卒業しない前の六月には就職先の会社に入り、巣鴨の社員寮にいたが、過労で9月に入院したとき、弟は独りで寮まで尋ねてきて、看病のためと称して、1週間近く泊まっていった。寮長広田君の特別な計らいだった。退院の日、弟と二人で飯田橋の病院から銀座へ出ようとして、都電に乗っていたら、警視庁あたりで空襲警報が発令された。電車が停まり、乗客はみな下ろされたが、防空壕に入る人はなく、まもなく、澄み渡った秋空に銀色に光るB29がただ1機悠々と飛んできたのを見上げていた。青空をバックに光っていた姿は美しくさえ思われた。これが東京上空に現れた最初のB29で、半年後東京下町の大半を火の海にして焼き尽くす魔物の尖兵だったとは誰一人考え及ばなかった。B29はその後毎日昼ごろに定期便のように飛んできた。本格的な空襲が始まったのは11月24日、70機編隊で来た。最初の偵察から約2ヵ月しか経っていない。
少年工の仕事は、第1、2期はいざ知らず、あとで来たものは主として一般工の手伝いで、まだ独立して仕事できるほどではなかった。日給90銭で休みの日は給料が出ない。少し熟練してくると日給1円5銭に上がる。食事は切符制で、月のはじめに食券が渡される。それを失くすと食事もできなくなる。実際に食券を失くして食事ができなかった例が時々あったという。分けて上げたくても、自身が不足だったのだから、どうにもならなかった。給料は30円ぜんごだが、派遣になると加給が付く。しかし買いたい食品は手に入らず、ほかに用途もないから結構余っていた。のちには100円ももらっていた人がいる。
高座の少年工たちは、8月15日の終戦の放送を工場内で聴いた。雑音がひどくて内容がよく理解できなかったが(この期に及んでも小難しい漢語ばかり並べていた)、この朝は空襲がなかったし、どうやら戦争は終わったらしいことだけは分かった。しかし、xx海軍中尉は、皆を集めて、
「お前たちが一生懸命仕事をしなかったから戦局が悪くなったのだ。気合を入れてやる」
とまた勤務を命じ、夜業まで続けた。米軍の飛行機がもはや飛んでこないのが変だなあと感じながらも毎朝整列しては、工場へ向かった。そのうちに、各地へ派遣していた工員が、船橋から、太田から、名古屋から帰ってくる。
「何だ、お前たち、何をしているのだ。戦争は終わったんだぞ、負けたんだぞ」
とはじめて終戦を知る。軍人の頭の固さを知る一例である。
寮では出身地(庄単位)別に再編成が行われ、一時金が何百円(700-800円だった?)か支給されたほか、ガリ版刷りの身分証明が渡されて、電車、汽車はすべて無料で乗車できるようになった。そこではじめて横浜や東京へ行けた人たちも多い。焼け野原になったとは言え、大都市は田舎出身者が大部分だった隊員には魅力があった。勇敢な者は大阪まで兄に会いに行っていた。食事は継続して供給されていたが、食費を払うことはもうなかった。そんなにご馳走ではないが、少なくとも腹一杯食べられるようにはなった。困ったのは、倉庫の食塩が底をついて、塩気のない食事が何日も続いたことで、幹部が相談して近くの厚木飛行場までいって塩を積んで帰った。マッカーサーが厚木に到着する前だった。マッカーサーは8月30日に厚木に降り立った。
町の中は復員した兵隊服の男であふれて、いたるところでマーケットが開かれていたが、大根1本10円、するめ1枚10円と貨幣価値は円単位に跳ね上がっていたから、一時金をもらったといっても瞬く間に消えてしまうものだった。この時、もう要らなくなったゲートルなどを農家へ持っていくと喜んで食料品と交換してくれた。このような生活が4ヵ月半続いて、弟たちはその年の12月31日、横須賀から氷川丸で帰国した。帰る直前に脚をやけどしたので1等船室に入れられた。生涯はじめて、またおそらく今後も1等船室には縁がないだろう。またとない経験だった。
故郷に帰った弟は15歳になっていた。本来ならば新制中学を卒業する年であった。高座の約束が絵に描いた餅になったので、改めて中学を受験しなければならないが、公立の学校はすべて入試を終えており、来年まで待たなければならない。幸い、林献堂氏の長男(ケンブリッジ卒)が霧峰で私立中学を創設したのでそこへ入学できた。
しかし、このような幸運は誰にも訪れたものではなかった。農村出身の多くの人は年令と学資の関係で進学を諦めざるを得なかった。何よりも3年間の日本での生活で、日本語と母語の台湾語しか話せなくなって北京語に順応するのに苦労した。頭がよかったにもかかわらず、親の農業を継いで一生を終えた人も少なくない。それでも都会生れの人はまだましだった。少し歳がいってはいたが、順調に進学して大學を卒業し、国際舞台で活躍した人(山を愛し、3ヶ国語に堪能だった楊氏や短歌ですぐれた作品を数多く残した洪坤山さんなど)がいた。一方、国民党軍に志願させられて内戦で戦死したり、大陸で病死したりしたのもいて、それこそいろいろであった。いずれのケースでも日本政府は何ら処置をとっていない。原爆被害同様、彼らはもう日本国民ではないという理由である。一方、台湾の国民政府は、少年工を日本に協力した者として差別し、その技術を活用しようともしなかった。高座経験者で高座会が結成されたのは、戒厳令が解かれた1987年だった。しかし、ほとんどの人は60歳になろうとしていた。また、当時は皆日本名をもちいていたから、本来の姓名が分からず、連絡がつかなかった人もかなりいた。

映画「緑の海平線」はその間の事情をかなり伝えてはいるが、取材不足の部分もある。後世の人がそのまますべてを網羅した真実と誤解しないように、敢えて本稿をしたためた。もちろん、ここに書かれたこと以外にもなお8000人あまりの人が語りたくて果たせなかった部分も残されていることを十分理解しての上である。
映画を見ていて感じたことがあった。披露された手紙の字がきれいであったばかりでなく、文章がかなりの水準に達していたことである。いまどきの日本の中学生でもこれだけの文章が書けるのは何人もいないだろうと思った。弟に言わせると、少年工に志願したのは級長とか副級長クラスの人が多く、一つの国民学校から6,7名程度しか合格しなかったのだから、当然だとのことだった。
一つ不思議というか僥倖というか、あれだけ大きな建築物がなぜ爆撃に会わなかったかと言うことである。銃撃には度々遭遇したが(銃撃で六名死亡したし、爆撃では名古屋の三菱工場で直撃弾に当たって25名死亡した)が高座工廠は爆撃を受けなかった。急ごしらえの木造建築だから、爆撃でも焼夷弾でも一たまりもなかったにちがいない。工場、宿舎を通じて無事だったのは、全く奇跡というべきだろう。それに、あの危険な時期に何回かに分かれて日本へ輸送されたが、一隻も撃沈されなかったのも奇跡に属する。あるいは台湾の媽祖さんがはるばる海を渡って庇護したのかもしれない。
                         2007/12/25

参考文献;  保坂 治男; 台湾少年工 望郷のハンマー  1993/12月
       野口 毅 ; 台湾少年工と第二の故郷    1999/7月
       台湾高座会編集委員会;
              難忘高座情          1999/10月
       

「よし」「だめ」とTake care ten minutes

「よし」、「だめ」、「引け」・・・
何の掛け声かおわかりですか。実は、これは野球用語で、皆さんおなじみの「ストライク」「ボール」「アウト」のことで、戦争中血迷った軍部が「英語は敵性語だから使ってはならぬ」と決め付けて、創作した用語でした。昭和18年3月のことでした。因みにこの「敵性語」は「敵国語」でなかったところが実に傑作でした。他にもラグビーは闘球、バスケットボールは籠球、バレーボールは排球、ピンポンは卓球、たばこの「バット」は「金鵄(きんし)」になりました。そのまま定着したのも少なくありません。戦局が楽観を許さなくなった時期に、本職の軍務をほったらかしてこんなことに頭をいためていた大本営の参謀たちの姿は、今からみると滑稽そのものですが、この敵性語禁止令で一生涯損をした人たちがいたことはあまり知られていません。
軍部は教育の場までこの政策を押し広め、女学校、実業学校生徒は敵性語を学ぶ必要がないという理由で授業を取りやめ、わずかに中学だけが「将来外国の知識を吸収するのに必要だから」という理由で時間数を減らして保留しました。私事で恐縮ですが、家内はこの時期に女学校に入学したので、アルファベットさえろくに読めない状態でした。最近、もっと深刻な状況が発生しています。一大決心でパソコンを習おうとした、年配のおじさん、おばさんたち、キーボード上のA、B、C・・・の位置が分からない(もう覚えられない)ばかりか、日本語のローマ字つづりができないのです。先生がまず困ってしまいました。いまさら仮名のキーの位置は覚えられないから、諦めて放棄する人ばかり、折角大枚を出して買ったパソコンが机の下で眠っています。この人たちは日本のかつての軍部に一生涯祟られているのです。
この文を書いた動機は、二つのことを思い出したためでした。一つは、戦後まもなく、太平洋の島々に散らばっている日本軍を復員させるために軍艦「酒匂(さかわ)」がある島に着いたとき、そこにいた米軍の将校が「酒の匂いがしませんね」といったこと。随行の記者が「どうしてそんな洒落(しゃれ)が言えるのか」と聞いたところ、「私たちは、志願して入隊するとすぐ日本語速成教程に回されて日本語を勉強しました」との返事、日本の軍部が英語を敵性語と排斥して教えるどころか、禁止したのにくらべて、米軍の柔軟なやりかたに若い私は強いショックを受けました。終戦後まもなくのことでした。もう一つは、戦後十年も経ったころだろうか、当時台灣に来ていた米軍顧問団の将校が通訳官をしていた知人に日本から来たガールフレンドの手紙をみせて、「どうして彼女はわたしに・・Take care ten minutes.というのですか」と聞いた話。彼女は日本語で「十分気をつけて・・・」と書いたのを彼は十分=ten minutesと読んだためでした。二人とも軍に入隊してから日本語の速成教育をうけたにもかかわらず、漢字の意味までマスターしていたのです。日本が負けたのは、このような日本軍の「夜郎自大」と米軍の「柔軟性」の差も影響しているとこのごろ思います。
もっとも、これで得した人たちもいました。台湾で(のちに中国で)野球をするとき、日本がかつて造語した野球用語の漢字が大変役に立って、頭をいためる必要がなかったのです。今台湾でもシナでもストライクは「好球」、ボールは「壊球」、ホームランは「全塁打」ですから、日本の訳をそのまま流用したにちがいありません。
ここでちょっとエピソードを入れると、太平洋戦争中、日本兵は40年前の明治38年(1905)制式のいわゆる三八銃で戦いつづけました。重さ4キロ、弾丸は5発、一発撃つ度に(こうかん)と称するレバーを引いて薬莢を飛び出させ、(こうかん)を押し戻して新たな弾丸を装填する方式です。装填できる弾丸は一度に5発。対する米軍のものは重さ2.5キロ、弾丸は25発、引き金を引く度に薬莢が飛び出し、次の弾丸が装填されました。こんな悪条件で戦わされた日本兵に同情を禁じえません。
日本語速成学校で勉強したアメリカの若い将校たちは、大部分前線に派遣され、捕虜になった日本兵士から出来る限りの情報を集めました。それはすべてワシントンの本部に送られて真実性を審査、分析して多くの作戦や戦場での戦闘法に生かされたことが最近公開された資料で明らかになっています。

焦点を台湾に移してみましょう。戦後台湾へ進駐してきた中国兵と官吏のあまりな質の悪さ、横暴さに失望、反発して彼らが推進しようとしていた「国語」を、習わない、話さない人がかなりいます。それがここへきて少し困ってきたように感じられます。中国語の電脳が使えないのです。いいか悪いか、あるいは好むか好まないかに拘わらず、十数億の人間が話している言葉で電脳が使えないということは、考えてみれば一大事です。自ら電脳のない世界に引きこもるのは簡単ですが、世界から隔離されることに甘んじなければならない。日本語族の孤独感を一層深刻にしている原因の一つと言えない事もありません。このことでわたしは、太平洋戦争中に日本の軍部が行った英語禁止措置とアメリカ軍が設立した日本語学校過程を思い出さずにはいられませんでした。
「若者が台湾語ができない、話さない」と嘆いている人が少なくありません。確かに、若者の台湾語離れはとても深刻で、近年加速的なのを感じます。一方では台湾意識が上がっているのに、この現象をどう解釈したらよいか、わたしはわたしなりに考えてみました。結果、到達した結論は電脳のせいということになりました。漢字の入力法はいろいろ考案されています。わたしも日本語の電脳が出来るようになってから、なんとか漢字の電脳(中文)も打てるようにと願って、試みましたが、結局注音符号、いわゆる「ポ、ポ、モ」がもっとも直接的で早いことが分かりましたが、肝心の発音が正しくないため中々できません。今でも出来ない。中国では注音符号の代わりにローマ字を使うが、それは小学校からやっているからこれも問題がありません。発音通り打って漢字に変換すればいのです。ローマ字かカナで打って変換すれば、日本文ができる過程と全く同じではないがほとんど同じです。それがホーロー語(河洛話)ではできないのです。若者の台湾語離れの原因の一つがここにあります。最近は、携帯電話の飛躍的増加がこれに輪をかけています。いつでも、どこでも自由に電子通信ができるようになったため、伝言、メッセージ、挨拶、恋愛にまで携帯電話が活用されると、考えていることが直接文字になる北京語が断然優勢になります。もう、台湾語を話す機会がどんどん減っていくのがお分かりでしょう。
アメリカ軍の精神で、戦後まだ頭脳がやわらかい時期に一生懸命「国語」を勉強していたら・・と後悔しています。いまさら「国語」を、注音符号を勉強せよとは申しませんが、「坊主憎けりゃ袈裟まで」や、「敵性語」の境地から脱却して、IT時代を迎える用意が必要な時期になったのではないかと、このころ思うのです。
                         07/10/04

2009年8月29日 星期六

見切り販売騒動

閉店間際とか新鮮度保証時間(最近はこれを賞味期限という)が近づいた商品を安く売ることを見切り販売という。生鮮食品や弁当などでよくもちいられる。仮名文字が好きな日本人はセールといっているが。
最近大手コンビニチェーンが見切り販売を行った加盟店に出荷を停めるか制限するかの措置をとったので、公正取引委員会の摘発をうけた。
売れ残りになると店の損失になるので加盟店が見切り販売するのは当たり前の行動で、商店ならば昔からおこなわれていた。私たちの若いころには、閉店30分前にパン屋で安いパンを買うのが生活の智慧みたいになっていた。時刻と天気次第ではお目当てのものが買えないこともあるが、反対に思いがけない安さで買えることもある。日本や台湾ばかりでなく、ヨーロッパでもミュンヒエン駅の地下街で夕方、パンばかりでなくジュースやワインまでセールしていたのに出会ったことがある。20マルク(当時のレートでNT$300元)で抱え切れないくらい大量の食品をもらい、二人で二食食べた経験がある。庶民、とくに旅行者や学生や労働者にはありがたい。東京でもよく閉店前の弁当屋で半値の弁当を買った覚えがある。
コンビニ本社の措置は消費者の存在を無視したやりかたなので委員会の指導を受けたのは当然だが、ここでもう少し問題を考えて見ようと思う。
そもそも賞味期限というのがいつごろから決められるようになったのか分からないが(法的規制はない)、その起源は薬、特に抗生物質の有効期限にあると思われる。抗生物質の立役者だったペニシリンは不安定で、当時の精製技術では特殊保存法をとってもある期間しか効力を保証できなかった。その上、薬剤の性格上使用時に所期の効力をもっていなければならない。それで有効期限(Expire date)という規定を設け、この期限をすぎたものは使用しないようにした。いまでは精製技術が進歩したので、有効期限は3年とか5年になったが、初期の製剤は一年くらいしかなかった。薬局方によれば、有効期限は次の規定に従って決める。
  「検定合格の翌月から~年(または~ヵ月)」
従って、この期間中は効力(専門語では『力価』という)と品質が保証されているわけだが、じつは世間ではその起源を知らないためいろいろな問題を内臓している。第一は、それでは期限を過ぎたものは次の日(または月)には無効になるのか、ということ。次にそれを使えば副作用が出るのか、ということ。私の答えは二つとも「否」である。たとえば昨日まで有効だった薬が今日は効かないということはありえないし、副作用の問題も同様である。しかも医者でも薬剤師でも期限中は薬効が100%あると信じている。実際には大抵の抗生物質は期限の最終日に薬効が85%以上あれば合格なので(種類によるが)、逆にいえば期限前は最低力価以上あることになる。
さて、この有効期限がやがて他の薬品、特にビタミン類にまで拡大され、さらに食品に拡大されていろいろな問題をひきおこした。
その一つが前述の、昨日までよいものが期限をすぎればもう食べられなくなるという迷信であろう。食品の変化は薬よりも条件が多い。調理の材料、、品質、人員、場所、さらには空気条件まで影響してくるから、賞味期限と言うのは「お上」で決められるものではなく、多分に会社または店の経験と「良心」に負うところが大きい。保存条件も\まちまちで、さらにコンビニのように販売場所が分散している場合、配達までの時間、条件も影響するだろう。それを一律に賞味期限(弁当では時刻まで決められているらしい)をきめるのがそもそも不合理ではないか。店としては少しでも回収したい気になるのが当たり前なのに、値引きすればブランドの信用にかかわるとか、消費者がそれを待って正規の買い物をしないとか理由をつけて見切り販売を規制する。彼等の頭にあるのは会社の利益のみで基本的に消費者を馬鹿にした考えにもとづいている。そして結局委員会の指導により売れ残りの15%の代金を本社が負担することにおちついた。
しかし、貧乏人は考える。売れなかった分はどうするのだろう。答えは「まるごとゴミ箱に捨てる」のである。かくて年間650トンの十分食べられるが賞味期限という化け物数字を過ぎた弁当がゴミ箱に捨てられる。店が損するのは変わらない。最近此の種のたべものは出来るだけ回収するようにと業界が提唱しているがそれでも目標は従来45%廃棄していたのを22%に減らそうというだけ。神様が怒る前に日本人の先祖がまず怒るべきだろう。
ところで、去年から激増した、住むところでもなく、収入が僅かしかない路上生活者(昔はルンペンと称していたが、現代は企業と社会が意図的に作り出している)が、このまるごとゴミ箱に捨てられた弁当を「拾って」食べたらどうなるか、と貧乏人は考えてしまう。
理論的には、ゴミ箱が店の中にあるあいだは、店の所有物だからそこからとりだせば窃盗になるのではないか。アフリカの餓民に何千万ドル寄付しても目の前の餓えた同胞には手を差し伸べることもできない。妙な世の中になったものだと思う。                 09/07/25

2009年7月21日 星期二

9721 バーゼルから(2)

ZurichからBazelへ帰るべく、自動切符売機で切符を買って出口から切符を取り出そうとしたら、後ろから肩を叩く人がいる。振り返ってみると小柄な日本人らしいおばさんがニコニコして頭を下げている。手に何か書いた紙切れとお札を持っているが、二、三漢字があるほか‘かな’ばかりで読めない。英語で話掛けて見たが頭を振るだけ、(英語が通じないのだ!)紙切れの中にZurich 中央駅があったから切符を買って下さいませんかといっていることが分かった。多分飛行機で着いたばかりだろう。同じ東洋人だから(あるいは日本人と思ったのかも知れない)安心したのかも知れないが、事情は彼女が考えていたほどスムースには進行しなかった。彼女が持っていた紙幣はそれこそ手が切れるような、銀行からおろしたばかりのま新しいものなので自動販売機がうけつけないでもどったのだ。手まねで別の紙幣はと聞いたら財布を見せてみな新品だということを示すだけ。仕方ないから私の古紙幣と交換してやっと切符を手に入れた。行き先はGrindelwald、ユンクフラウへ行く中継駅である。途中までおなじ線路を走るから一緒にのって、万国共通語で聞きだした結果、彼女は{独り}で憧れのユンクフラウ付近をハイキングしてくるのだという。予定は22日間。私のほうがたまげた。最近、女性の一人旅も珍しくないが、キャリオンの鞄一つで22日もハイキングするのはいいとして、英語も通じないでどうするのかなあと心配になった。しかし、彼女は平気である。それに始終ニコニコしている。それを聞くと鞄から紙切れを一杯とりだした。日本字とドイツ語の対訳みたいで用事はこれで全部達成できるのだろう。
どういう人だろうと想像する。子育てがすんで自由になったから、かねてあこがれていたユンクフラウへいって付近をあるきまわって見ようとおもいたったのだろうか。登山用の折りたたみ式の杖までもっているからまあ大丈夫だろう。乗り換え駅で彼女は相変わらずニコニコと手を振って降りていった。思わず心の中で
Have a nice journey “!
と叫んでしまった。

(以上、Basel 在住の孫の嫁の最近の経験談。心配する前にうらやましいと思ったのは私にもそういう素質があるからかも知れない。)

2009年7月20日 星期一

追い出す

京都弁で「いらっしゃい」を「おいでやす」という(そうだ)。東京の人には「おいだす(追い出す)」と聞こえるからはじめての人はちょっと戸惑う。ところが先日、実際に有名食堂から追い出された経験をした。
ある人の招待で小さいが有名な食堂へ行った。長年の習慣で約束の時間5~10分前には着くようにしているが、この日、電車の接続がよすぎて15分前に着いてしまった。おもて通りに面した小部屋で料理人が二人シュウマイを作っており、奥のほうのカウンターに職員が一人いるだけ。
「何か御用ですか」と聞く。
「5時に招待されているのですが」
「いえ、、うちは5時半からです」
「あ、そう。でリンさんがリザーブしていると思いますが」
「ありません」
「じゃ、10人ぐらいだと思うが」
「10人なら1テーブルありますが、李さんです」
「あ、それでしょう。まだ早いようですね」
「5時半開店です」
「じゃぁ、それまで待っていますか」
「お客さんは5時からです。まだ15分あるから、そこら辺で散歩して下さい」
という次第で「まだ準備中ですから暫くお掛けになって下さい」と言うのでもなく、店を追い出された。
実は、招待を通知した係りは5時半になったことを後で知ったのだが、私に通知しなかったのだから非は当方にあるのだがそれでもねーと思わざるをえない。

それにつけて感じるのは、日系デパートのエレベーター嬢、私の知る限り彼女らの所作は30年来全然変わっていない。係りは当然何代目かになると思うが。
ついでに去年の夏、立山へ行った時の事を思い出した。、売店の壁に気に入った暖簾があったので、それを下さいといったら、手元の在庫を探して、
「お客様、申し訳ありませんが、在庫がありませんから他のでいかがですか」という。
「じゃ、そこにあるのを売ってくれませんか」
「いえ、あれは見本でもう2ヵ月そこに曝していますから、色も少しあせているかもかもしれません」
「いや、見たところが色はまだしっかりしているようですね。それをもらいます」
「少々おまち下さい」
と主任となにか話していたが、やがて戻ってきて、
「あのーお客様、見本でしたから5%引きいたします」
と結局消費税の分安くした。たいした額ではないが、客に与える印象は雲泥の差だった。

一般に華人は商売がうまいとよく言われるが、この二つの例からどちらがうまいか、歴然としていると思うのだが・・・。      09/07/02