台湾東部にあった官営移民村。 吉野村周辺の地図です。
タウラン、ポクポクという南勢アミ族(北部アミ族)の二大集落がありました。
日本統治時代の花蓮周辺の鉄道路線図。 当時の駅名は「花蓮港(かれんこう)」でした。 拙著『古写真が語る台湾日本統治時代の50年』(祥伝社)から転載。
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花蓮港神社の様子。 日本統治時代、港の有無を問わず、この町の名前は花蓮港(かれんこう)でした。
蘭嶼。日本統治時代は紅頭嶼と呼ばれた島。 タオ族の人々が暮らしています。 この大きな船はチヌリクランと呼ばれるもの。 幾何学的な模様が印象的です。
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盬水港製糖株式会社の社史より転載。
昭和17年末に実施された国勢調査。 各都市の人口は以下のようになっている。
台北(38万3650名) 高雄(19万7897名) 台南(15万8689名) 基隆(10万7683名) 嘉義(10万2192名) 台中(10万300名) 新竹(9万2692名) 彰化(6万3033名) 屏東(6万2185名) 花蓮港(3万9813名) 宜蘭(3万8950名)
【9月13日、講演のお知らせ】
9月13日(日曜日)の11時30分から、 東京都杉並区のまるごと台湾フェアで講演をさせていただきます。 タイトルは「特別講演・古写真でたどる日本統治時代の台湾」。
私の講演に続いて映画『KANO』の上映会もあります。 あわせてお楽しみください。
http://suginami-kouryu.org/contents/code/eve150913 詳細はこちらから。
四月下旬に刊行になる新刊の表紙デザインです。
書名は『古写真が語る 台湾 日本統治時代の50年』。 日本統治時代の台湾を誌面で再現するという試みの一冊です。
祥伝社から刊行になります。
どうぞよろしくお願いいたします。
吉田橋。 台湾東部、馬武窟渓の河口に架けられていた橋。
馬武窟渓の下流一帯は渓谷美で知られ、 第五代台湾総督佐久間左馬太によって「台東耶馬溪」と命名されました。
トビウオ漁に出かけるタオ族(ヤミ族)の男達の様子。
紅頭嶼は現在、蘭嶼と呼ばれています。 日本統治時代に撮影されたタオ族の男女。
『日本地理風俗大系』より複写。
サヨンの鐘(原題・「乙女の真心」)
(西条八十作詞・古賀政男作曲)
嵐(あらし)吹きまく 峯(みね)ふもと 流れ危うき 丸木橋(まるきばし) 渡るは誰ぞ うるわし乙女(おとめ) あー 紅(あか)きくちびる ああサヨン
晴れの戦(いくさ)に 出でたもう 雄々し師の君 なつかしや 担う荷物に 歌さえ朗ら あー 雨は降る降る ああサヨン
散るや嵐に 花一枝(ひとえ) 消えて哀しき 水けむり 蕃社の森に 小鳥は啼けど あー 何故に帰らぬ ああサヨン
清き乙女の 真心を 誰か涙に 偲ばざる 南の島の たそがれ深く あー 鐘は鳴る鳴る ああサヨン
県社花蓮港神社は花蓮港廳米崙山の中腹にあり、 大正五年四月に起工、同九月に竣工、二十二日鎮座式を行っています。 大正十年三月二日県社に昇格しています。 祭神には大国魂命、大己貴命、少彦名命、北白川宮能久親王を奉祀していました。
日本統治時代の蘇澳駅の様子。 駅舎は木造家屋だったようです。 漁港は南方澳にあり、歩くか、バスで移動していたそうです。 陸揚げされた魚介類はトロッコで駅まで運ばれていたそうです。
蘇澳漁港。現在は南方澳漁港と呼ばれています。 台湾の漁業基地の中でもっとも原形を留めている港です。
日本統治時代に撮影された瑞穂温泉の様子。 警察官療養所として設けられた滴水閣が左手の丘上に見られます。 ここは現在も瑞穂温泉山荘として営業を続けています。 https://amzn.to/2W7UtdY 『古写真が語る 台湾 日本統治時代の50年』(祥伝社) Amazonのページ
日本統治時代に撮影された太魯閣峡谷のカット。
当時は理蕃道路と呼ばれていた山越えの道は現在の横貫公路よりもはるか上を走っていました。 天祥(旧名タビト)に近い緑水歩道がかつての理蕃道路の一部です。
もともとはタロコ族の居住するエリアでしたが、 ここの歴史もまた、移住政策によって全容を掴むことが難しくなっています。 そのあたりの背景は拙著『観光コースでない台湾』(高文研)で紹介させていただきました。
太魯閣峡谷のタビトにあった佐久間神社。 第五代台湾総督の佐久間左馬太を祀っています。 跡地は文天祥公園となっています。狛犬が残っています。
なお、タビトは現在天祥という名に改められています。
蘭嶼点景。 日本統治時代に撮影された古写真より。 タタラ舟。
日本統治時代の花蓮港郵便局の風景印(絵入り消印)。 手作り感がたっぷり漂っていて、いい感じです。
ちなみに花蓮の日本統治時代の名は港の有無に関わらず、花蓮港(かれんこう)でした。 拙著『台湾風景印〜駅スタンプと風景印の旅』(玉山社)より転載。
http://www.taiwanembassy.org/ct.asp?xItem=60808&ctNode=1448&mp=202 台北駐日経済文化代表処のウェブサイトで紹介された拙著の記事
花蓮港駅前のバス乗り場。 結構な賑わいですね。ここから東海自動車という会社が蘇澳まで路線を持っていました。
なお、日本統治時代の都市名、駅名は港の有無にかかわらず、「花蓮港(かれんこう」でした。
アミ族の豊年祭。ミリシンの様子。 日本統治時代に発行された絵はがき。花蓮港(現花蓮)付近のパンツァーと呼ばれる人々。
日本統治時代に発行された太魯閣峡谷の絵はがき。 昭和10年前後、かなり盛んにこの景観が宣伝されました。 意外にもカットのバリエーションが豊富です。
アミ族の豊年祭。 現地ではミリスィンと呼ばれます。 この写真の撮影地・集落名は不明です。 服装から判断すると海岸アミ族と思われrます。
日本統治時代に整備された臨海道路(現蘇花公路)。 その歴史は清国統治時代に遡りますが、昭和6年に自動車道路が開通して以来、 すぐに往来が激しくなったと言います。
ただ、この区間は断崖絶壁が延々と続き、今もなお、難所中の難所として知られています。
鹽水港製糖株式会社の上大和糖業所。 上大和は現在、光復と改名されています。 製糖工場も操業を終え、現在は観光糖廠となっています。
山岳地帯を中心に各地で見られた吊橋。 この写真は太魯閣峡谷付近のものとされているが、 高さが全くわからないカットになっている。
太魯閣峡谷の入口に位置するこの橋。 タッキリ渓を渡っており、現在も同じ場所に架橋されている。 現在は漢字で「立霧渓」と表記されている。
花蓮側にはブセガン、蘇澳側にはタッキリという集落があった。 前者は現名「富世」、後者は「崇徳」となっている。
日本統治時代の台東駅を鳥瞰。 現在、台東駅は郊外に移転しており、極めて不便。 市の中心部にあったこの旧駅は芸術展示空間となっている。 画面右手にある木造車庫は今も残っている。
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